無職1246日目
スペイン語の諺に、
A buen salvo está el que repica.
警鐘鳴らす者に、火の粉はかからぬ
Bernard Villasanz(ed.);新井藍子.2009.「REFRANERO ESPAÑOL(39) スペインの諺辞典」.『福岡大学人文論叢』41(1).181
というものがある2 。
自分に火の粉がかからんかったらまあ何とでも言えるわな、という意味で、本当に大変なのはその当事者であると言っているのだろう。よう知らんけど。
話は大幅に変わるが、大体の警告や助言、勝手な評価や意見は高みの見物、自分は安全圏にいて、当事者のことなんかそっちのけでなされるものであり、真に当事者の立場に立ったり、同じ条件や環境でその状態になったりしなければそりゃどうとでも「アドヴァイス」できるし、それが当たっていても的を外れていても特に害は無いわな、と思ったりする(そういうことを考えたりするので、鯉王がたまに助言を求められたときは「安全圏3 からの物言いで申し訳ないが」と鬱陶しく思われるかもしれないが前置きすることにしている)。
かといって(鯉王が被助言者であれ、或いはたまたまその場に居合わせた第三者であれ)上記のようなこと(の割とソフト目なやつ)を助言4 している当の本人(知り合いや、非知り合いだったりする)に言えば、
「は?そんな当事者みたいなことに我(俺、私など相手の一人称がここにくる)が陥るわけがないんだが?www」
と言われることになり、鯉王的には「いや、だから実際に当事者のような目に遭ったことが無かったら真意や気苦労とかもわからんだろうからそういう警鐘だか評価だかを勝手にしたり、一面で見ただけで何かを言うのはどうかと鯉王は思うんであって」と言いたくなるのだが、多分言ってもわからんし平行線の議論(鯉王的には議論する気も特にない)が続くのも面倒なので「そうっすねー」と言うにとどめるのだが、実際助言を求める人々はどう思っているのかもわからない。人間の感情や気持ちなどと言うものが安直にわかるなどなんだのと言うのは傲慢な気もしなくもないので、何もわからない。
そんなわけで、(億が一にもあり得ない前提で話をするが)鯉王に助言とか求められても何もわからない。
閑話休題。
昼過ぎに公共交通機関に揺られ、過去問を閲覧しに行った。都会なところに出ることになるため、厳戒態勢でいく。過去問の閲覧者はまあまあ多かった。明日もアルバイトがあるのでさっさと閲覧して、さっさと帰路に就く。再び公共交通機関に乗ると、片手に缶ビール(要は酒である)を持ち(勿論開栓済み)、マスクを外してそれを車内でぐびぐびやりながら乗客にいちゃもんをつけて絡むという厄介極まりない老人が居た。所かまわず大声で暴言と思しき何かを吐いている。密を避けるのではなく、自分から新型コロナウイルスとがっぷり四つに組んでいくスタイルの老人とかヤバい老人ガチャSSRだなと考えつつ、変に絡まれるのを避けて降車した。
降車して乗り換えを待つ間、日差しを避けて日陰に立っていた。八月の終わりの午後、残暑厳しく照り付けは激しい。待っていた公共交通機関がやってきたとき、老婦人が列に並んでいたのでその後ろに並ぼうとしたら、老婦人が「貴方の方が暑い中先に待っていたのだからお先にお乗りなさい」と声をかけてきた。いやしかし自分は若いかどうかは別として後から乗っても問題ないし、なにより着物姿の老婦人よりも先に乗るわけには、と断ったがそのまま押し切られ、先に乗ることになった。聖人すぎる老人ガチャもSSRだったか。ありがたいが申し訳ないので自分の降車か老婦人の降車、どちらが先に来るかはわからないが会釈して去ろうと思っていたら、自分が降りる頃には煙のように姿が消えていた。停車時には窓から外を見て件の老婦人が降車するなら会釈しようと思っていたので、見落としたはずがないのだが…。なんとも不思議な気分になりながら根城に帰りつき、明日のアルバイトと受験料の支払いに備えて諸々を準備した。
今日の一冊
公共交通機関内で読んだ一冊。著者がミニマリストに至る経緯とか、なぜこんなに物を買い求めるようになってしまったかが特に科学的な根拠とかもなく綴られている。ハウツー本というよりはエッセーに近い。取り敢えず空きペットボトルとか飲み終えた後に洗って乾かした牛乳パックとかはすぐにリサイクルに出そうと決心した。そして、今後どこに移動になるかはわからないが、なるだけモノを増やさずに、しかし本はガンガン増やして、かつ災害や日常に備えた必要な品はちゃんと備えて、ミニマリストではなく、スペシャリストとして生活していこうと思った。