69日後に無職1000日目を迎える文系

親から連絡があった。どうも祖母の家(親にとっては実家でもある)に行ったらしい。私と祖母とは60歳違いで(ちょうど干支は同じになる)、私がアラサーであるということは祖母はアラ卒寿であるということでもある。コロナ禍により祖母宅へ向かう頻度もめっきり減り(というのも祖母の家のある地方自治体はコロナウイルスに罹患でもしようものならまず引っ越しは余儀なくされるという中世レベルの田舎なのである)、久方ぶりに親も祖母の様子を見に行ったとのことだったが、どうやら物覚え等に問題が出てきているようであるらしい。

そりゃまあアラ卒寿である、逆に今まで一人で暮らせていた方が奇跡に近い。祖父が他界してからも家の敷地内にある畑の世話をし、縫物をし、たまに近所の人と集まったりし、と世間が騒ぐ「丁寧な暮らし」の500倍くらい丁寧な暮らしを送り続けてきたのである。祖母の同級生も近所のお年寄りも次々天寿を全うしていく中でかなりすごい方なんじゃないか。

ただ我々が疎遠になっていた間に(親戚等は定期的に訪問していたようだが)、物覚えが悪くなってそれがいくつかのトラブルを引き起こしていること、「万が一」が起こった時に身分が無いようじゃマズいということ(=早く大学に合格するなり働くなりして所属を作れ)は伝えられた。

それと同時に、「人間と老い」について色々と考えさせられることとなった。元々親ときょうだいに間違われるほど老け顔である鯉王的には、外見は18やそこらの時とあまり変わりはない(内面の衰えは最近ラジオ体操を行うことで明白になったが)。とはいえ確実に老いへの道を歩んでいることは確かだろう。

祖父は70代で他界したが、私の高校時代の古典の教師はどう見ても70代くらいにも拘らず、一切の板書をせずに古典の現代語訳を全文暗記して教壇に立っていた(何かシルバー人材的な感じで任用されていたものと思われる)。エジプトには70代で現役のサッカー選手がいるらしいし、90歳近くでも私よりも最新のガジェットを操りながら仕事に趣味に励む人もいるらしい。かと思えばスーパーやコンビニで怒鳴り散らす老人も現代日本では散見されるし私もかつて文系社会人だった頃エンカウントしたことがある。

その違いはいったい何なのか。私は好奇心であると考えている。根拠は特にないが…。やはり色々な物事に興味を持ち、自分で試してみることが老いを遠ざけるのではなかろうか。少なくとも、その70代の教師を見ていてそう思った。

願わくば私も老いてなおますます盛んなる老人となりたいものである。そしてなるだけなら一生涯働き続けられるような能力、技術を日々研鑽していきたい。

本日の勉強時間:38分

残:962時間→961時間22分

文系社会人を経ての無職。からの学生。 本業は医学生、副業は無職文系。

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